田中正雄のエッセー


漫画と母と柔道と
懐かしの名作復刻シリーズ 全12巻 少年漫画劇場 10スポーツ部門 ダルマくん
昭和47年/筑摩書房


  この本に収録されたダルマくんの中に未解決のままになった事件がある。猪垣山岳の
闇討ちの件、三日月城に現れた白ひげの老人の正体、これはお気付きの事と思うが、
実は小使いのおじさんであり、その昔支那でその名を響かせた拳法の達人であったと
かの物語はこの後に続くのだが、何しろ三千ページに近い長篇の中の最初の一部をま
とめたものだからお許しを頂きたい。
原稿の整理をしていると、十八年前にこの物語を描いた頃と同じように血のたぎりを感じ、
やはり私も柔道人間だなと思った。私もと言ったのは、私の父が武道家特有のちょっぴ
りの器用さと多くの不器用さをそなえた柔道家であったから。父は子供の頃から渋川流
の柔術を修め、青年時代京都にまで修行に行き、柔道の全国大会にも優勝しながら、
一流武道家になれなかった。又、近くに住んでいた友人がほねつぎを開業したいと言え
ば、「よし狭い町内にほねつぎ二人はいらん」とほねつぎを諦め、中学から柔道師範の
招聘を断り理髪店の大将になってしまったという。だが一生柔道を愛し続け、還暦を過ぎ
て健康を案じる家族の目をぬすんでなお道場に立っていた父は、やはり本当の柔道家
の一人だったと思う。そういった父のイメージがダルマくんのおじさんに、また小使いの
おじさんに自然に出たものか、今になってこれらの登場人物からふと父を感じる事があ
る。
  一つの作品として、それに全力を傾注する事が作家の誠意だと考え、その主義を貫いた。
参考までに、ダルマくんを「少年」に連載した頃同時に他誌に掲載した作品は、野球漫画
『ライナーくん』( 「ぼくら」) 、歴史漫画『西郷どん』( 「少年クラブ」) 、科学漫画『エンゼルZ 』
( 「冒険王」) 、探偵漫画『スピード・ハッチ』( 「漫画王」) 等である。結果として私の柔道
漫画は「少年」だけ、野球漫画は「ぼくら」の紙上だけでしか見られないという事になった
が、連載期間は他の多くの作家に比して長く、殆どの作品が三年以上、ダルマくんは六
年にも及び、その間別冊付録となったもの三十七冊を数える大長篇となった。野球漫画
のごときは、二十五年に「野球少年」で始まった。『補欠の正ちゃん』から連載する雑誌
は変わったが、『ライナーくん』『チャンスくん』『ナイスくん』等二十年殆ど休みなく描き続
けました。我ながら、いささか執念深いと思う。立技で勝負がつかなければ寝業に引き
込んで押さえ込み、関節技がだめなら締め技でと時間いっぱい全力を尽くす、損と言わ
れても自分が正しいと信じたペースを頑固に守ってきた。振り返ってみると、その長所も
短所も柔道人間特有のそれであるのに気がつく。
 私は子供の頃からけんかをした記憶がない。小さい頃から柔道をやっていたから、少
しくらい勝つ自身も持ていたが、怪我で母に心配をかけたくなかったからいっさいけんか
はしなかった。青年時代そうとう大きいけんかに巻き込まれそうになった事は数回ある
が、私が話をしていると今や血の雨という場面も不思議に治まってきた。だから今も無
事で漫画を描いていられる。そういえば、私は柔道着を着て道場に立つ時はあらゆる束
縛から開放され、自由で無心であり度いので、道場では仕事の話は一切しない事にし
ているから、仲間のものも数人をのぞいては私の職業を知らない。その仲間の間では、
田中氏は宗教家だという事にきめられていたらしい。それらしい話をしたおぼえも無いの
だが・・・。ダルマくんの連載中徹底的な悪人を出してくれと編集者から再三注文をうけた。
六年の間にそれらしき者が相当数登場したが、何時の間にか人相まで変って善人になっ
ていった。性は善なりと信じる単純な私の宗教的信念からか。
 子供の頃心配をかけたくなかった母が私達子供をのんびり育ててくれる一方で、真正
直だが武道家特有の頑固さと世渡りのへたさかげんをもった父の陰になって苦労してい
るのを見ていたからかもしれない。終戦直後の混乱期に、私が「漫画家になってもいいか」
と相談した時、母は「すきな事やさかい、やってみたらええわ、しっかりやりなあ」と言って
くれた。そこで決心して、その頃数えるほどしかいなかった漫画家の一人となって新聞、
雑誌、単行本の仕事を始めた。やがてダルマくんの連載開始となる。ダルマくんを始めて
間もない頃、私が風邪でたおれた事があった。だが休載は許されない。その時母が初め
てペンを持って線ひきを手伝ってくれた。それ以来、線と墨入れは母がやってくれるよう
になった。今回のダルマくんの原稿の修正整理に当たっても七十三歳の母が喜んでそ
の係をやってくれた。そして私が漫画を描く限り手伝ってくれそうである。となれば、まだ
まだ十年いや母が米寿の祝いをするまで漫画を描き続けねばと思う。
 ほきつぎをしながら、小さい道場を建てて子供を集めて柔道を教えながら、漫画を描き
ながら、・・・をしながら等、この後書きを書きながら考えている。
 ダルマくんが蘇ったことは何と言っても嬉しいことである。感謝。
[少年漫画劇場「ダルマくん」あとがきより]

その後の記
 現在82歳になった私は、鎌倉の七里ヶ浜に居合道の道場を開いて居りますが、そこに
居合道練士六段の昔ダルマくんのファンだった人が通って来てくれて、共に道を求めて
語り合いながら汗を流せるのは、誠に楽しく、仕合わせなことである。
[平成21年9月]

40歳頃、柔道整復師の学校で柔道を教える

手塚治虫と私
「鉄腕アトム大図鑑」(平成5年/講談社コミッククリエイト)

 手塚君と初めて会ったのは昭和二十一年関西マンガマンクラブの会合でした。当時の
手塚君はまだ初々しさを残した十七歳の少年でした、という僕も若干十九歳、二人共、
大きい夢をいだいた漫画少年だったのです。
 その後、彼よりの誘い出しの葉書で、度々いっしょに映画を見ては、その後コーヒー一
杯で長時間、漫画について、アニメについて最後には東京進出の野望を熱く語り合いま
した。彼は東京の親戚を足場に、島田啓三、田河水泡等有名漫画家を訪問し、作品の
批評を求め、出版社を尋ね歩いた様であった。その後も会う度に「子供の心を失ってい
ない僕達でなければ、本当の子供漫画は描けないのだ」と、東京進出をはたすことばか
りを話していた。だが、当時の一流少年誌の連載漫画は、島田啓三、田河水泡、漫画集
団の先生方におさえられていて、他からの進入を許さぬ牙城となっていたのです。関西
から誰一人も東京へ進出していなかった時に、若い二人は連載漫画をもって、無謀にも
東京漫画界の牙城への突入を決行したのです。
 どういう巡り合わせか、かつて名編集長と云われた加藤謙一氏のおこした「野球少年」
と「漫画少年」にそれぞれ別の道をたどって連載を始めたのです。彼は「漫画少年」に
『ジャングル大帝』を、僕は「野球少年」に『補欠の正ちゃん』を・・・昭和二十五年のこと
でした。
 その後、雑誌「少年」にも、手塚君は『鉄腕アトム』が、僕は『ほがらか健ちゃん』が連
載され、昭和二十九年に僕が『ダルマくん』を描き始めると、その秋から三十年にかけて
「少年」の別冊付録は二人が交互に受け持つことになりました。それと共に他誌の別冊
付録の仕事が多くなり、時間的に二人の出会いの機会がなくなっていった。ダルマくん
はその後六年にわたり連載、アトムはアニメでの人気と共に永く連載されたようである。
 その後、寺田ヒロオ氏の「漫画少年誌史」の出版祝賀会で久しぶりに彼と出会ったとき、
手塚君は「ぼくが宝塚から通った『漫画少年』はおんぼろしもたやで、その向かいのでか
いビルが『野球少年』だったので、田中さんやったなとおもいましたよ」「お互いよく頑張っ
てきたね」「あの頃は本当に楽しく漫画を描いていたよね」此れが彼との最後の会話に
なりました。
 二人共、若さと生気に満ちあふれて、東京進出を争い合った頃が懐かしく思い出され
ます。

昭和28年頃、漫画家仲間たちと
上段左より  手塚治虫氏、山根一二三氏、高野よしてる氏
下段左より  うしおそうじ氏、古沢日出夫氏、田中


ファンレターに支えられた
[永久保存版 講談社創業95周年記念企画
懐かしの「少年倶楽部」「少女倶楽部」「幼年倶楽部」を飾った忘れえぬ昭和漫画誌の異能・異才30人]
(月刊「現代」2004年1月号 講談社)


 井上一雄氏も福井英一氏も若くして亡くなってしまいました。忙しすぎたんでしょうけど、
そういう僕も最盛期には一〜二週間、睡眠時間がない時期もあってね。母親が机の横
にいて、コックリやり始めると叩き起こされるという地獄の日々を味わっているんです。
 それでも僕が生き延びてこられたのは、父の勧めで小学生のときから続けている柔道
のお陰かもしれません。どんなに疲れていても、編集者に作品を渡したらすぐ講道館に
行って稽古をしたり、家にある専用の柱を相手に柔道の技をかけたり、60sのバーベル
をあげたりしていましたから。
 精神的にも辛いときもありました。でもファンレターに支えられました。当時の読者は繰
り返し読んでくれていてね。僕の意思が読者に届いていることがわかったので励まされ
たんです。『ライナーくん』は貧しくて野球部に入れないけど、友だちの協力で野球がで
きるようになり、邪魔する子もいるが、主人公は正しいと信ずる道を貫くというドラマです。
当時は「漫画は教育の一端をになっている」という意志と自負が、作者や編集者にもあ
りました。
 実はもう1つ仕事を続ける支えになった人がいるんです。それは母の存在です。僕に
とって母が喜んでくれることがやり甲斐になっていました。ライナーくんの母親、あれは実
をいえば、僕の母親なんです。子供の気持ちを考えて、しっかりやりなさいといってくれる。
あれは僕が漫画家になろうとしたときと重なっているんです。(談)

二十代の頃、漫画を執筆中


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